
K2(8,611m)は、カラコルム山脈にある山で標高は世界第2位。
パキスタンと中国・新疆ウイグル自治区との境に位置します。
不安定な天候、急な傾斜により登頂の難しさでは、エベレストより上と言われています。
そして、遭難者の数もエベレストより多く、チャールズ・ハウストン、ロバート・ベイツ共著の書籍から「非情の山」とも呼ばれています。
寒そう・・・。エベレストより高いのかあ・・遠くから眺めるだけでいいかなw

バローチスタン州やen:Makranに住んでいたバローチ人が漁村を作ったのがカラチの始まりである。バローチ人の多くが今も尚、カラチに居住しており、バローチ語ではこの都市のことをKolachiと呼ぶ。しかしながら、カラチが現在の姿に発展するようになったのは19世紀から始まるイギリス植民地時代に起因する。
1947年、パキスタンが独立を達成すると、カラチはパキスタンの首都となり、インドからムスリムが多く移住した。
独立直後の人口移動により、カラチは、急速に人口が拡大するとともに、パキスタンにおける政治・経済の中心として機能するようになった。
カラチはインフラストラクチャーが貧弱だったこともあり、社会経済的に大きな問題に直面したが、現在では、パキスタンにおける産業・ビジネスの中心地として発展を遂げた

当時のインドの書物の場合、飾りのある2枚の表板にはさんで,繊維製の紐で綴じられて、贅沢品として輸出されていました。
このガンダーラの文殊菩薩は左手に巻物を持たせ、智慧の象徴としています。
中心部は涅槃図、その両サイドは蓮華をあしらった模様と、唐草風模様、花びら模様です。
模様部分はいずれもガンダーラ遺跡にみられる模様を参考にしました。

北に置かれたメイン・ゲートから南に100mのところには仏教寺院が設けられ、さらに、南には双頭の鷲のレリーフを彫りこんだストゥーパが建設されていた。
インド、ギリシア、イランの3つの文化の融合を示す象徴である。
都市の南部は王宮であり、謁見室やハレムが設けられた。

伝説上では、タクシャシラという王国がタキシラを中心とする地域を支配したとされる。サンスクリットでは、タクシャシラとは、タクシャ王に所属する土地を意味する。タクシャは、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するバラタの子供とされる。また、インドを代表するもう1つの叙事詩『マハーバーラタ』では、クル王国の戴冠がタキシラで行われたと伝えられている。
タキシラの始まりは、アケメネス朝における一州として出発している。時代としては、ダレイオス1世の時代とされているが、アケメネス朝によるタキシラの支配は長いものではなかった。また、パンジャーブ州には考古学上、アケメネス朝時代の遺構は残されていない。 紀元前518年にアケメネス朝の支配が始まったとされる。 ダモーダル・ダルマーナンド・コーサンビーの説によれば、タキシラとは「大工」を意味する「タクシャカ」という言葉と関わりがあり、この「タクシャカ」はナーガ族の別称であった。
タキシラの発掘は、1872年にイギリス人考古学者アレクサンダー・カニンガムによって始まった。数多くのガンダーラ美術の傑作がタキシラから発掘され、1913年から1934年の間には、ジョン・マーシャル卿 (John Marshall) による発掘作業が行われた。マーシャル卿による発掘された出土品はタキシラ博物館に展示されている。

タキシラ(ウルドゥー語:ٹیکسلا, サンスクリット:तक्षशिला [Takṣaśilā], パーリ語:Takkasilā)は、パキスタン・パンジャーブ州にあるガンダーラ時代に始まる遺構である。その歴史は紀元前6世紀まで遡ることが可能であり、六派哲学の一つであるヴェーダーンタ学派、また、インドの仏教の中心の役割を果たしてきた。1980年にユネスコの世界遺産に登録された。
タキシラは歴史的に3つの重要な交易路が交差する場所に位置していた。1つはマガダ国の首都パータリプトラから続く道であり、1つがバクトリアやペシャーワルといった北西から続く道、最後の1つがシュリーナガル、マーンセヘラー、 ハリープル渓谷を経由してシルクロードへとつながる道である。
タキシラは、パキスタンの首都イスラマバードの西、もしくはラーワルピンディーから北西にそれぞれ約35Km の、グランドトランク・ロードから少し外れた場所にある。

モヘンジョダロ(Mohenjo-daro, Urdu: موئن جودڑو, Sindhi: موئن جو دڙو, English: Mound of the dead)は、インダス文明最大級の都市遺跡。また、『モヘンジョダロの遺跡群』はユネスコによる世界遺産登録名である。
紀元前2500年から紀元前1800年にかけて繁栄したと考えられている。最大で4万人近くが暮らしていたと推測されている。しかしその後忽然と滅亡したと考えられており、さまざまな憶測が絶えない。近年の研究では大規模な洪水によって一気に衰退したと考えられている。
遺跡は、東西南北にレンガで敷き詰められた直線道路が伸びる。沐浴場や下水道、二階建ての住宅、井戸などレンガ作りの大規模な構造物が並ぶ。しかも緻密に計画されて配置されている。
モヘンジョダロの「城塞」には、しばしば、「大浴場」、人によっては「公衆浴場」と呼ぶプール状施設があり、その規模は、12m×7m、深さ2.5mである。これは、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられる。隣接して「穀物倉」という施設が設けられ、規模は、46m×23mであって、27ヶ所の建物基礎が確認されている。上屋構造は、木造であったと推定され、二つ合わせて神殿的な施設であると考えられている。
正式名称は、اسلامی جمہوریت پاکستان(ウルドゥー語。ラテン文字転写(一例)は、Islami Jamahuria Pakistan。イスラーミー・ジャムフーリーヤ・パーキスターン)。
公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。
日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。
国名の「パキスタン」は、ペルシア語起源の言葉で「清浄な国」を意味するパーキスターン(پاکستان Pākistān)に由来するとともに、パキスタンを構成する五大地域であるパンジャーブのP、北西辺境州に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANを表す。パキスタンの名は、英領インドの独立運動の中でムハンマド・アリー・ジンナーらが提唱したムスリム(イスラム教徒)多数地域の分離独立要求において、将来樹立されるべき国家の名として採用され、1947年の独立とともに正式な国名となった。

パキスタン・イスラム共和国(パキスタンイスラムきょうわこく)、通称パキスタンは、南アジアの国家。東はインド、北東は中華人民共和国、北西はアフガニスタン、西はイランと国境を接し、南はインド洋に面する。
国土の中心部を流れるインダス川の流域に国民の80%以上が住み、人口の増加が著しい国の一つである。